2010/09/30

 
「花と爆弾」第7回純益寄付のお知らせ

2004年の3月に「花と爆弾ーもう、戦争の暴力はやめようよー」を上梓して以来、毎年9月末にさせてもらっている純益の寄付ももう7回目です。今年も多くの方々より平和への願いを託していただき、173,010円を、アフガニスタンとイラクの子どもたちのために活動するNGOに寄付させていただくことができました。ほんとうにありがたく思っております。

詩画集「花と爆弾」も、出版より6年以上の年月が流れてはいますが、まだまだ広がりを見せてくれています。今年は台湾の平和活動をされている方にまで届いたようですし、またイギリスの詩愛好家グループの読書会でも紹介していただいているようで、新たな読者の皆様との出会い、感激で言葉もありません。

またトーク会や原画展、ピースライブなど「花と爆弾」の主催するさまざまなイベントに参加して、活動を支えてくださっている皆様、そして遠い場所から毎月寄付を送金しつづけてくださる方、イベントの開催を援助してくださる方など、ほんとうにたくさんの方に支えられて、この1年も終えることができました。

また、9月11日のピースライブ時に、51,081円を「花と爆弾」に託してくださった「まいど・いん・あまがさき」様には、改めてお礼を申し上げます。この浄財は、若者たちが阪神尼崎中央公園で、歌を歌い、アフガンやイラクやパレスチナのパネルを紹介しながら、1年をかけて、道行く人々から集められたものです。その熱い平和への願いが、アフガニスタンとイラクの子どもたちにしっかりと届くよう、私が絶大な信頼を寄せる下記のNGOに寄付させていただきました。



宝塚・アフガニスタン友好協会(TAFA) 63,010円
ペシャワール会 3万円
JVCイラク基金 5万円
日本イラク医療支援ネットワーク 2万円
高遠菜穂子さん 1万円
計 173,010円 



明日からまた新たな1年が始まります。アフガニスタンとイラクの子どもたちが安心して暮らせる日が1日でも早く訪れることを祈りながら、またできることを続けていきたいと思います。


収支報告の詳細は「花と爆弾」HPの寄付報告のサイトにご紹介しておりますので、ご覧ください。

2010/09/19

 


沖縄日記(9月18日最終日・首里)


台風11号が先島諸島を直撃!沖縄本島はそれほどの影響はないといいながらも、時折豪雨が!最終日は首里散策を計画していたけど、ちょっと無理かな~と思いながらも、決行!意外と大丈夫だった(歩いているときは雨が降らず、屋内にいる時に豪雨という感じで助かりました^^)

首里城もよかったけれど、何よりもその周りの街並というか石畳というか歴史のある空間というかが、とてもよかった。まず首里駅から歩いて城壁の南側の斜面へ。地元の人たちのための公園などがあるのだけど、それがとっても古いガジュマルが立ち並んでいたり、うたきがあったりして、とても深い空間だった。それからぼちぼち歩いていたら、引き込まれるように魅力的な石の階段の道があって、そこを下ってみたら、樹齢300年のアカギの木を祭るとても神聖な場所があった。観光客も誰もいなくて、ひとりでそこにたたずんでいたらちょっと怖いぐらいだった。

それから城に入って中を見学した後、北側の斜面をとことこ降りていったら、今度は安谷川という湧き水の場所があったりうたきがあったり。首里城の南側の広い空間もほとんどが祈りの場だったんだけど、こうして歩いてみると、ほんとうにいたるところにうたきや神聖な場があって、首里から普天満宮までのびる松並木があったのもうなずける。琉球王朝時代は各国との中継貿易でとても潤う豊かな国だったそうだけど、琉球はほんとうに自然も信仰も暮らしも豊かな国だったんだな~と実感した。


この穏やかで美しい島を襲った戦争。そして今なお広大な土地が占領され、戦争のための訓練に使われている。言葉で言ってしまうとなんとも希薄になってしまうけれど、この島の現実と、真の姿と願いをわずかでも感じることのできた4日間だったと思う。


この4日で何がわかったというのはおこがましいのはわかっているけれど、これからは少しでも沖縄のことも発信させてもらえたらと思う。沖縄の大地には私のおじいさんの世代の人々が今も閉じ込められていて、そしてその大地の上では、アフガニスタンやイラクの街や暮らしを破壊する戦争の訓練が今も続けられているのだから。。。


東京の明治大学で、「骨からの戦世―65年目の沖縄戦」比嘉豊光展(10月29日~11月5日)が開かれます。昨年から今年にかけて、沖縄の再開発地区などで収集された遺骨を撮影したものです。毎年百体ほどの旧日本兵の遺骨が見つかっているそうです。


写真は、広大な城壁の上に森に囲まれて立つ首里城
 
沖縄日記(9月17日名護・那覇)

10時半、120系統の市バスに飛び乗る。名護への1時間半の旅だ。高校生の頃、自分だけのビーチを探して乗ったバスでもある。久しぶりのバス道には、やはり28年前と変らない米軍基地のフェンスが北谷・嘉手納まで続いていた。道の両側とも基地のフェンスの部分もある。ここまでくるとどちらがフェンスに囲まれているのかわからなくなる。

恩納村まで来ると、車窓は一変する。世界でも有数の美しい海だ。高級リゾートホテルが立ち並ぶ。ここだけを訪れる人には、沖縄はパラダイスに見えるだろうな。お昼前に名護に到着。名護十路という中心地だったところでバスを降りたけど、ほとんどのお店が閉まっていた。どこも商店街は苦しいようだ。一軒だけ「沖縄そば」と張り紙がある店が開いていたので、入ってみる。70代ぐらいのマスターと、50代ぐらいの女性客がいた。女性はやんばるの方に住んでいるので、久しぶりにこの店に来たという。「私が高校生の時は、このお店はすっごく人気があって入れないぐらいだったのよ」と懐かしそうに言う。その頃は流行のパブかバーのような感じで、若者のあこがれの場所だったらしい。彼女も私が一人旅だというととても驚いた。でも、いろいろ旅の話をしているうちに、「私も娘ももう就職したし、一人旅とか行ってみようかな。今度神戸にも行くわ!」と言って、元気に店を出ていった。皆のあこがれだったバーで沖縄そばをすすり、元気なやんばるの女性に出会えたことだけが楽しい思い出となった、寂しい名護再訪だった。


このまま1日を終えるのはなんだか寂しいと思って、夜の国際通りに降り立った。自分用のお土産にかりゆしとホタルガラスのペンダントを買って、ちょっとウキウキ気分。沖縄に来たからには、やはりラフテーと海ぶどうを食べなければ!と思い立ち、うろうろと国際通りを歩く。観光客用のきらびやかな店がならぶ中、なぜか心ひかれる地下にのびる階段が・・・。吸い寄せられるように降りていくと、地元の人ばかりがきそうな、しぶいお店。オーナーは仙人のようなおひげをたくわえた自称「雑学の大家」。泡盛を飲みながら、沖縄の文化や暮らしや、歴史に基地への思いに、島の環境・・・ほんとうにいろんなお話をしてくれた。作家や文化人の人たちも沖縄に行ったら必ず立ち寄るようなお店だったみたいで、神戸から来たと言ったら、小田実さんがお店に来たときの話とかしてくれた。私も沖縄に行ったら必ず寄らせてもらうことにしよう☆

酔っ払ってたので、写真はありません^^
 


沖縄日記(9月17日森川公園・宜野湾市立博物館)

朝一番。羽衣伝説のある森川公園に歩いていく。丘の中腹あたりに水が湧き出している場所があって、長く人々の暮らしの中心だったそうだ。昔天女が降り立って、羽衣を脱いで水浴びをしている伝説もある静かで神聖な場所。湧き出る水に手を伸ばすと、やわらかい水が流れていく。沸き水を囲う石垣の向こうに、まだまだ階段が続いているので、なんとなく登ってみる。どんどん登るとそこには広い芝生の広場が広がっていた。そして、その芝生の向こう側には、フェンスが。近づいてみるとやはりフェンスの向こうは普天間基地だった。
「あの湧き出る水は、この基地の敷地に降って、地中を通って湧き出てきたものだったのか」と思うと、あの水がおしひしゃがれた骨たちの涙のような気がしてきた。フェンスの向こうには、大きなガジュマルの木が間隔を置いて立っている。おそらく接収される前はあの木々のそばには民家がならんでいたのだろう。青々と茂る西洋芝が、なんともやりきれない思いにさせる。


基地の傍に密集して立つ民家の間を抜けて、宜野湾市立博物館に行く。ここは小学生の社会見学用といった感じの施設だが、宜野湾の歴史を知るには最適な場所だった。今の宜野湾市の模型に、戦後すぐの普天間基地や、収容所、それから戦前あった松並木の位置が、ランプで示されるようになっている。1955年に接収されたという伊佐地区のこともよくわかる。ここはお薦めだ。


写真は、森川公園のフェンスの向こうに見えた基地内のガジュマルの木
 


沖縄日記(9月16日・普天満宮)

今度は市バスに飛び乗って、琉球時代からの信仰の対象だったという普天満宮へ。神社といってもとても沖縄風の社で、祭られている神様も地元の女神様がメイン(一応天照大神や熊野権現という日本の神様も祭られていらっしゃいますが^^)。女神様になった女性が隠れたという伝説がある洞穴に入らせてもらう。中は鍾乳洞で、まあるい空間が広がる。海の方向に向かって細長くなっていて、かすかに外の光が入ってくる場所がある。まるで子宮から産道を通って外の世界に産まれていく命を体現したような空間だ。ここが女神様をお祭りする空間であることがよくわかる。

戦前はきっとあの光のもれる場所の向こうは原生林の茂る山か、光る海が見える場所だったのではないかなと勝手に想像する。今はそこには米軍基地とのフェンスがある。この神社も返還されるまでは基地の一部だったそうだ。人々の信仰の対象までも基地にしてしまう。。。地元の風土や伝統にどれほどの影響を与えたのかと想像する。

フェンスに行く手を阻まれて鳥居に戻ってくると、なんだか疲れて喉が渇いたので、鳥居横にあった「コーヒーシャープ」に入ってみる。きっと戦後すぐからあるお店なんだろう。米兵が言うshopを聞いたまま「シャープ」とカタカナ表記にしたに違いない。カウンターの向こうに中年の女性が一人で店を見ていた。アイスコーヒー100円という、これまた戦後すぐのような値段。客は私だけでふたりきりなので、いろいろおしゃべり。私が女一人旅で神戸から来たと知ると、彼女はとてもとても驚いていた。「私は沖縄から出たことないの」「沖縄と言っても、ここと家がある首里の往復だけ。普天満宮にもいったことないし、首里城にもいったことないの」と、ぽつぽつと話してくれる。「でも、ここにいるとエイサーの行列が通るのが見えるの。とってもいいよ。」と嬉しそうに笑う。小学生のお子さんがいらっしゃるそうで、とてもいとおしそうに話してくれた。そろそろ帰りますと私が席を立つと、「これもっていって」と自家製のサーターアンダギー(売り物と違ってめちゃくちゃ大きい)を包んでくれた。「またふらっと来てね」と何回も手を降ってくれた。

彼女との出会いは、なぜか今回の旅の中で一番心に沁みた。なぜだかわからない。なんということはないたわいもないおしゃべり。でも、なぜか沖縄の女性の静かなやさしさを感じたのだ。今度会ったときに同じように感じるかどうかはわからない。でも、この日記に書くのも迷ったほど、なぜか大切にしたい出会いだった。


写真は普天満宮の沖縄風のお社。
 


沖縄日記(9月16日・佐喜眞美術館)

市役所から歩いて5分ぐらいのところに佐喜眞美術館がある。普天間基地が一部返還された土地を使って個人が建てたという美術館だ。「沖縄戦の図」という大作が常設されている。美術館のすぐ裏はフェンスが張られていて、そこから向こうは普天間基地。屋上からは基地とその向こうに広がる海が見えることで有名だ。

私も屋上に上がってみた。基地の滑走路も見える。でも、一番私の心に届いたのは、滑走路と美術館の間に広がる亜熱帯の森だった。葉っぱの大きい木々が生い茂り、無数のシロガシラが鳴いている。赤とんぼの群れが風にそよぎ、時折ウグイスの声も聞こえる。森のあちらこちらには亀甲墓と言われる沖縄の独特のお墓や、うたきと呼ばれる祭壇のようなものも見える。65年前は砲弾により草木も焼き尽くされた場所に、基地と沖縄が交じり合い、生と死が交じり合う。滑走路の下に眠る骨たちの行き場のなさを、鳥や木々が慰めてくれているような気がして、いつまでも鳥たちの唄を聞いていた。


写真は、佐喜眞美術館から見る普天間基地の滑走路と森
 

沖縄日記(9月16日・宜野湾市役所)

午前10時、宜野湾市役所基地政策部に到着。尼崎で出会った山内さんと基地渉外課の職員さんが応対してくださる。戦前の普天間を知りたいとお伝えしていたので、写真集や資料などを見せてくださる。たくさん見せていただいた中で一番印象に残ったのは、1944年に米軍が撮った宜野湾の航空写真。北に位置する普天満宮と南の首里城を結んだ参道、松の並木道がしっかりと写っていた。よく米軍は「何もなかったから、普天間飛行場を作った」なんて言ってるけど、それがデタラメだっていうことを米軍の撮った写真が明らかにしてくれているなんて、なんて皮肉なんでしょう。松並木沿いには番所という昔の役場もあって、ここが「何もないところ」ではなく、普天間の人々だけでなく、戦前の人々、また琉球王国の時代から、とても大切な地であることは明らか。これほどはっきりしたことも本土にいたらわからなかったなんて、ほんとうに情けない気がした。(宜野湾市の歴史を説明したサイトでも松並木の写真が見られます。)


そしてあの普天間基地の滑走路の下には、今も激戦で散った日本兵の骨がおしひしゃがれている。11月には普天間基地返還を最大公約に掲げる宜野湾市長伊波洋一氏が沖縄県知事選に立候補し、その市長選挙として現在の副市長の安里(あさと)猛氏が立候補する。安里氏が当選すれば、宜野湾市としては計画通りに基地返還のため、日本国を相手に訴訟を起こす覚悟でもある。<知日派>のアーミテージは「沖縄県知事選の結果いかんでは、辺野古移設は不可能になる」と発言した。アメリカといえども、民意を踏みにじってまで新しい基地は作れない。

「65年もかかってしまっている。もう、決着をつけなければ」と普天間基地の滑走路を見わたす山内部長に、宜野湾の人々の真の願いを感じた。

写真は、宜野湾市役所にて山内部長とのツーショット☆
 



沖縄日記(9月16日・嘉数高台公園と沖縄国際大学)

ホテルで朝食を済ませて、タクシーで嘉数高台公園へ。運転手さんは宜野湾の方。高台をあがると地球儀の形をした展望台が。あがってみると大学生らしきグループが引率の先生(?)に、沖縄戦の歴史を教えてもらっている。私も昨日の夜読んだ『これが沖縄戦だ』で初めて知ったのだけれど、北谷・嘉手納海岸から無血で上陸してきた大アメリカ軍と最初に戦ったのがここ嘉数の高台で待ち伏せていた京都や島根から派兵された日本兵たち。何日も一進一退を繰り返す戦闘が繰り広げられた地で、ほんとうにたくさんの日本兵、市民、米兵が亡くなったそうだ。敷地にはたくさんの慰霊碑が建てられていたけれど、一番大きいのは「京都の塔」。京都は太平洋戦争で空襲に遭わなかったから、よく「京都で先の大戦と言えば、応仁の乱」とか聞いたけど、京都の男たちは、ここでの戦闘でたくさん亡くなっていたのか・・・と思うと、やはり太平洋戦争の哀しみと無縁の地など日本にはないんだな・・・と実感。

トーチカが残されている場所にはアメリカ人と思える若者の一団が中を覗いて騒いでいた。ひとりの女性に「学生ですか?」とたずねると、「私は軍人の妻で、あのトーチカを覗いているのが夫。3年の任期で沖縄に来た」とのこと。「現地の言葉ができないのが残念だけど、こちらにいる間に、ここのことをいろいろ学びたい」とも言っていた。軍人やその家族と言えども、皆まだ20代のアメリカの若者たちだったから、ほんとうに深くいろんなことを学んでほしい。地元の人たちとの健全な交流の場とかたくさんあればいいな~と思った。

それからタクシーに乗って市役所に向かおうと思ったら、運転手さんが2004年にヘリが墜落した沖縄国際大学の卒業生だから、ヘリが墜落した場所に案内してあげると申し出てくれる。「あの時は墜落現場の近くの会社にいたけれど、爆弾が落ちたような衝撃で驚いた」とも話してくれる。最初は「米軍基地は永遠にありますよ」って言ってたけど、ヘリが墜落したアカギの木を見せてくれながら「やっぱりこんなことはおかしい」って、つぶやいていたのが、私の心に深く残った。


写真は、嘉数高台から見た北谷・嘉手納の海岸。65年前この海はアメリカの艦船で埋め尽くされ、島に向かって砲弾の雨が降った。
もう一枚は沖縄国際大学の敷地に残るヘリ墜落によって焼けたアカギの木。立ち枯れたような木から芽吹くひこばえが強く美しい。
 



沖縄日記(9月16日・宜野湾トロピカル・ビーチ)

朝6時起床。ビーチの方に散歩に出かける。沖縄はやっぱり南国だ。神戸ではもう見かけなくなったツバメがたくさん飛んでいる。きっと神戸で巣立ったヒナたちもこちらで立派に飛んできたんだろうと、勝手に納得。それからとってもきれいな声で鳴く頭の部分が白い鳥がたくさんいた(後で調べたらシロガシラという鳥だった)。イソヒヨドリも飛んでいたし、他にもたくさんの種類の鳥がいた。街路樹にはいろんな実がたわわに生っているし、鳥たちにとっては楽園だな~と思いながら、出島の先端まで歩いていく。すると海からおばあがあがってきた。「何かとれるのですか?」と聞いたら、「すぐそこまで泳ぐとさんご礁と熱帯魚がいてきれいだから、毎朝泳いでるさ~」との返事。さすが、沖縄。お年よりは元気で、海はきれいだね~。


写真は、出島からの海の眺めと、コンベンションセンターの屋根(手前の木の左上の方にシロガシラがとまっているのが見えるでしょうか?)
 



沖縄日記(9月15日・宜野湾)

国際通りからタクシーに乗って、宜野湾市のビーチ近くのホテルへ。タクシーの運転手さんは浦添市の方。私が神戸から来たというと「大阪のおばさんは元気な方が多いようですね」と言われてしまう(まあ、私はその「おばさん」の範疇ではないから、そのような話題なんだろうと良いように解釈^^)。「そうですね。大阪も神戸も女性は元気ですよ。沖縄の女性は、おとなしい方が多いのですか?」と聞くと、「そうね・・・おとなしいかな・・・うん、やさしいよ」とゆっくりとした口調でいとおしそうにおっしゃる。そのときは、そうなのか・・・としか思わなかったけど、これからの出会いで沖縄の女性のおくゆかしさとやさしさをかみしめることに。

タクシー左手には、28年前も見たであろう米軍基地(多分牧港補給地区)のフェンスが。そして、沖縄名物(?)のスコールも!沖縄だな~、これからどんな3日間になるんだろう・・・と思いながら空を見てみると、なんとも大きな虹が普天間基地の真上あたりにかかっている!基地の隣を走りながら「米軍基地は300年はあるだろう」とか気弱につぶやく運転手さんの言葉に私も気弱になったけど、ずっと輝き続けてくれている虹に励まされ、宜野湾市へと到着したのでした。

ホテルについてみると、そこは最近返還された米軍基地の跡地のようで、調整区域というのかな、あまり何もなく殺伐とした感じ。沖縄のおじいやおばあがきりもりする居酒屋さんなんて、かけらも見当たらないようなところ。困ったな~。国道沿いのマクドナルドぐらいしか食べ物屋もないぞ・・・と思いながらも、日が暮れないうちにあたりを散策しようと歩いていたら、なんとなくいい感じのカフェの看板が・・・。矢印にそって小道を入っていくと、とってもおしゃれなカフェFUUNOが。ここは30代の九州出身のオーナーがふらっと寄った宜野湾で「ここで店するのもいいな~」との思いつき(?)で、5年ほど前オープンされたカフェ。お店もオーナーの人柄もすっかり気に入ってしまいました。そしてオーナーはこれから3日間、毎晩私の沖縄旅報告を聞かされるはめになるのでした^^。ビーチにもリゾートホテルにも近い立地だから、宜野湾のビーチに行く方はぜひ寄ってみてくださいね。


写真は、私を迎えてくれた虹と、カフェFUUNOあたりから見える夕日。
 


沖縄日記(9月15日・国際通り)

11日のピースライブが終わって、ほっと一息ついた後の15日の朝。神戸空港より那覇に飛ぶ。沖縄本島は高校生の頃に遊びにいったきりだから、28年ぶりだ。あの時の思い出は、リゾートアイランドだと思っていったら、街もビーチも米兵の若者であふれてて、いたるところに米軍基地のフェンスが張り巡らされていたこと。若いながらも、なんとなく違和感を持って、それから本島に行く気がしなかった。今から思えば、嫌なことから目をそらし、そのまま忘れようとしていたのかもしれない。

そんな私が沖縄に関心を持つきっかけを作ってくれたのは作家の岡部伊都子さんだった。『沖縄の骨』を5年ほど前に初めて読んだときは、衝撃だった。あの基地の下にも、返還前は1号線と呼ばれていた道路にも、沖縄戦で亡くなった人々の骨がおしひしゃがれていたなんて。。。機内で『沖縄の骨』を読み返しながら、今は何がどうなっているのかわからないけれども、この沖縄滞在では、65年間の骨と沖縄の哀しみを心に抱きつづけていようと決めた。


空港について、ゆいレールというモノレールに乗って、国際通りへ。まずはお昼に沖縄のお祝い用汁物のランチを食べる。店に置いてあった沖縄タイムスを読む。小沢さんが民主党代表選で負けてしまったことで紙面はいっぱい。「日米共同宣言」を見直すというスタンスだった小沢さんに沖縄の人は期待していたんだ。文化面を見ると「フェンス」という沖縄の米軍基地の周りの人々を撮った写真展が那覇市民ギャラリーであるという。歩いて10分ぐらいの距離だから、テクテク行ってみた。

沖縄在住の女性写真家・石川真生氏の写真展・フェンス。911の燃え上がるWTCの刺青を彫った米兵や、米兵相手の女性たちの写真も。返還前の写真かしら?と思わせる建物の古さや人々の荒れた感じが際立つ白黒写真だけど、これらはすべて2009年から10年に撮られた写真。沖縄市の基地の近くの写真が多くて、私は行ったこともない地域だけれど、写真だけ見ると、ほんとうに返還前かベトナム戦争のころのサイゴンか・・・っていう気がしてくる。これが沖縄の現実なのか・・・と、到着2時間目にして、自分の無知さにめまいがする思いだった。

平和通りあたりを歩いていると、古本屋さんがあるのに気がついた。大田昌秀氏編著の『これが沖縄戦だ』が目にとまる。ちょうど機内で読んでいた『沖縄の骨』に、これだけは皆に読んでほしいと岡部さんが書いていた本だ。なんというめぐり合わせ!今夜ホテルでしっかり読んで勉強しろとのお告げ(?)だろうと、しっかり購入。



写真は国際通りの南端にある琉球新報社のビル。このビルの北どなりの市民ギャラリーで「フェンス」写真展が催されていた。
 


沖縄日記(はじまり)

9月5日に尼崎市公民館で開催された宜野湾市基地政策部長の山内さんの講演会をきっかけに、突然行きたくなった、沖縄、宜野湾、普天間基地。6日の朝、ネットで手配して、15日から18日までの3泊4日の旅に行ってきました。ほとんど何も用意もなし。神戸の本屋で買ったガイドブックと岡部伊都子著『沖縄の骨』をカバンに入れて、16日の朝に宜野湾市役所で山内さんに会うという予定だけ入れて、フラッと行ってきました。

何もないオープンな旅・・・それがよかったのか、不思議な、そして素晴らしい出会いにあふれる旅になりました。少しづづ、日記形式で旅をつづります。

写真は、国際通りの端っこにある琉球新報社の前に咲いていたホウオウボクの花。

2010/09/12

 




第7回 
花と爆弾ピースライブ&ドキュメンタリー





毎年9月に開催させてもらっている、アフガニスタンとイラクの子どもたちのためのチャリティ・イベントも今年で7回目になりました。今年も第2回からずっとライブでご協力いただいている丸岡マルコ淳二さんを始め、京都から阿部ひろ江さん、神戸から矢谷トモヨシさんというピースフルなアーティストが駆けつけてくださって、ほんとうにステキなライブとなりました。

また、「やんばるからのメッセージ」「普天間基地騒音DVD」なども上映させてもらい、やんばるの森で座り込みによる米軍ヘリパッド建設阻止活動に参加する若い女性の話や、普天間基地を抱える宜野湾市の基地政策部長さんの講演会を9月5日に開催された尼崎市公民館の職員さんの普天間訪問時のお話なども聞けて、映像だけでなく、現地の声を少しでも聞くことができました。

それにしても普天間基地を飛び立つF18戦闘機の爆音はすごかったです。本当は120デシベルの騒音らしいのですが、街中でそれを再現するのは迷惑になるので、102デシベルほどで聞きましたが、もう心臓がバクバクするほどの轟音でした。あの轟音が民家の真上で鳴り響いているとは、今でも信じられません。

また普天間基地を中心とした離着陸訓練の様子も見ましたが、あの危険な離着陸を密集地で2時間も続けているなんて、これも信じられない光景でした。このDVDは宜野湾市と尼崎市のご厚意で、希望される方にはお貸しできますので、ご希望の方は私・小橋(kaorukobashi@hotmail.com)まで、ご連絡ください。


今回のメインイベントの「911の子どもたちへ」には、多くの若者が見に来てくれました。やはり同年代の若者が作った映画ということで、非常に考えさせられ、911事件やその後の対テロ戦争を自分のこととして捉えるきっかけとなったというコメントが多く寄せられました。



ハイジャックされた1機目の旅客機が世界貿易センタービルに衝突した21:46には、皆で黙祷をささげました。2001年9月11日に亡くなったアメリカの人々、その後の「対テロ」戦争で命を落とした何十万ものアフガニスタンとイラクの人々、また異国の地で散ったアメリカの兵士たち。。。戦闘で亡くなった人ばかりでなく、重傷を負っても道路封鎖のために病院にたどりつけなくて亡くなったイラクの青年、適切な薬が届かなくて死んでいったイラクの白血病の子どもたち、終わらない戦闘の中で、満足に水さえ飲めないまま死んでいったアフガニスタンの子どもたち・・・、そして、何もわからないまま18歳そこそこで米軍兵士となり、帰国後もPTSDに苦しみ、自殺していったアメリカの青年。。。この9年間の戦争の暴力の中で亡くなったすべての命のために祈りました。


一緒に祈ってくださった方々は、「花と爆弾」をずっと支援してくださっている仲間たち、3年前尼崎市で平和の講演会を開催してくださった尼崎の人々、今年の春参加させてもらった「アースデー・はまでらこうえん」の仲間たち、ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんのご縁で知り合った人々、そして、沖縄をこよなく愛する「のこされ島」のご縁で出会った人々・・・、ほんとうにいろんな出会いからつながった人たちでした。そして昨夜初めて仲間入りしてくれたのは、「911の子どもたちへ」に関心を寄せて集まってくれた若者たち。。。


それぞれが、それぞれの思いを胸に、いろいろな活動をされていますが、昨夜一緒に祈ってわかったことは、活動内容や表現方法は違っても根っこにあるものは、たったひとつしかない命、生きとし生けるものへの愛なんだ、ということです。



最後に、マルコさんが矢谷さんと一緒に、「イマジン」を自分らしい日本語で歌ってくれました。
素晴らしい夜でした。
歌ってくれた方、話してくれた方、
やさしさに包まれるような環境を提供してくださった「のこされ島」ののっこさん、カンゾーさん、ありがとうございました。受付を手伝ってくれた西岡さん、徳島からピースカードを持って駆けつけてくれたりえさん、1年間尼崎の駅前で集めた募金を届けてくださった「まいどいん・あまがさき」の皆さん、そして、会場で長い時間をずっと一緒にすごしてくださったおひとりおひとりに、心から感謝しています。


ありがとう。
出会えたことが最高の喜びです。



追記:イベントの純益は、フード&ドリンク代とプロジェクター使用料、それから「911への子どもたちへ」製作委員会へのカンパを差し引いて、15000円となりました。尼崎の皆さんからの募金も後日集計いたしまして、これまで1年間の「花と爆弾」の純益とあわせて、9月の末にアフガニスタンとイラクの子どもたちのために活動するNGOに寄付をさせていただきます。寄付後に当ブログでもご報告いたしますので、またご確認ください。




写真1:会場の様子
写真2:尼崎の皆さんからの募金と徳島の学生たちが作ってくれたピースカード
尼崎での募金活動が「まいどいん・あまがさき」さんのブログで紹介されています。ぜひご覧ください。

また、丸岡マルコ淳二さんのブログで、当日の様子がたくさんの写真入で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。
     

2010/09/01

 

911の子どもたちへ

エフエム宝塚でのゲストトークも明日(9月2日朝8時20~40分と夕方6時20~40分・再放送)の放送が最後です。
最終日は、9月11日のチャリティイベントで上映させていただく「911の子どもたちへ」について。東京の大学生たちが同世代の若者に見て、考えてもらいたいと作った意欲的なドキュメンタリー映画です。

「9年前の9月11日、あなたは何をしていましたか?」の問いかけで始まるこの映画、9年前といえば、今私が大学で教えている1年生たちはやっと10歳ぐらでしかなかったのですよね。彼らにも映画を見てもらいましたが、

「あんなにたくさんの飛行機がハイジャックされていたとは知らなかった」
「関係ないビルが倒壊していたなんて、ぜんぜん知らなかった」
「どれほど自分がこの事件について知らなかったか・・・自分の無知さに驚いた」と、
若者に事件そのものを改めて知ってもらうにも、とてもよい映画だと思いました。

そして、日本とのかかわりも。

「自分たちの貯金が、アメリカの戦争に使われているとは知らなかった。」
「今までアフガンやイラクの戦争は他人事だと思ってたけど、自分たちの責任を感じた。」
「こんなことに加担するのは嫌なので、自分も何かしないといけないと思った。」と、
自分たちの問題として捉えなおしてくれた学生が多かったことにも、とても勇気付けられました。



「もっと自分で情報を得るようにしなくちゃいけない」と、
受身ではいけないことに気づいてくれた学生たちを頼もしく感じました。



9年目の9月11日。
改めて、世界を変えてしまったあの事件を、振り返ってみませんか?


第7回 花と爆弾ピースライブ&ドキュメンタリー
(アフガニスタンとイラクの子どもたちへの募金イベント)
 
9・11:9年目の9月11日の夜に・・・
「―2001年9月11日、あなたは何をしていましたか?」

学生映画 『911の子どもたちへ』上映会
●日時:2010年9月11日(土)  
●場所:Bar のこされ島(大阪通天閣隣)
●参加費:一般2000円
学生1500円
(1ドリンク&1フード付き)
純益はアフガン、イラクの子どもたちのために活動するNGOに寄付させてもらいます。
●ご予約・お問い合わせ
 BARのこされ島 
TEL 06-6633-5565(19:00以降)
●主催:小橋かおる

スケジュール(予定)
17:00 開場
17:30 「やんばるからのメッセージ」上映
18:00 丸岡マルコ淳二 ライブ
18:30 「911の子どもたちへ」ドキュメンタリー映画上映
20:00 阿部ひろ江ライブ & 交流会 ~ 21:46 黙祷

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